町を守るために避難を禁じられ、市内にとどまった人々を襲った空襲。

タイトル「禁じられた避難 ~青森市~」

「日本各地の都市が空襲に遭ったことは知っていましたが、青森空襲でこれほどの被害があったことは知りませんでした。

しかも、空襲を恐れて郊外に避難していた市民をわざわざ家に戻す。なぜ、このようなことが起こってしまったのでしょうか。そして、なぜアメリカ軍は青森を空襲したのでしょうか。」

戦時中の青森市は北海道から運ばれた石炭を各地の軍需工場に送り出す基地となっていた。

昭和20年、東京、名古屋、大阪などの大都市圏は頻繁に大空襲に襲われるようになり、青森でも建物疎開や空襲に備えた防空訓練が行われた。しかし、都市から多くの疎開者が移り住んでいたため、青森市民の多くは空襲が差し迫ったものとは感じていなかった。

7月14日、北海道から石炭を運んでいた連絡船が狙われ爆撃され、12隻の連絡船は全てが沈没、座礁。市内各所でも400人以上が亡くなる。アメリカ軍の目標は石炭輸送の妨害だった。

恐ろしい空襲を体験した市民たちの約3割は郊外の田園地帯へ避難した。しかし県や市はその行動に危機感を抱き、県知事が新聞で「逃げたものは防空法(敵の空襲に対して市民の協力が必要なときは市内からの退去を禁止することができると定めた)によって処罰する」と警告。

さらに、「一家全員で避難して家が空っぽになっている場合は配給を停止、帰宅の期限は一週間後」と決められ、それを知った多くの人々、とりわけ女性、子ども、年寄りが郊外から市内に戻ってきた。

「石炭輸送の拠点となったために青森はアメリカ軍に狙われることになりました。」

当時青森市の中学生だった方、また島根の男性からの手紙。子どもたちも勤労動員にかり出されたが戦争に勝つまでは国民が火の玉で頑張るということに誰も不満をいうものはなかった。

「当時はこのようにすべての国民が戦争への協力を求められる時代だったんです。青森の人たちも、空襲による火災から町を守ることを求められ、家に戻っていました。」

空襲前日の7月27日、アメリカ軍が青森市に空襲を予告する大量のビラを撒く。目的は市民を動揺させ、戦争を終結させるための心理作戦だった。市民の中にはビラを見て家族を避難させた者もいたが、憲兵などによってビラは回収されほとんど市民の目にとまることはなかった。

帰宅期限だった翌28日の夜、帰宅していた市民たちの上に、62機のB29爆撃機が無数の焼夷弾を落とした。市民の消火活動はまったく無力だった。

投下されたのはM74という新型焼夷弾。空気に触れただけで自然発火し、水をかけても消えにくく飛散して燃え広がり、乾くと再び発火するという「黄燐」という物質が使われていた。

家の近くの建物の地下室に避難していた女性の話。

建物に焼夷弾が落ちて、1階に上がるが外は火の海で逃げることができず、母と赤ん坊だった自分の娘と3人で部屋の中央に身を寄せ合い、「死んだお父さんとおじいちゃんのそばに行こうね、3人でなかよく」と言って布団をかぶり、それきり眠ってしまった。

気づいたときは救護所にいたが、母と娘は亡くなった。

「自分のほうが先に死ねばよかった。母が私を助けてくれたけども、私は母でありながら我が子を守れなかったなって、そういう気持ちでいっぱいで」

この空襲で市街地の9割が消失。犠牲者は1018人にのぼった。

「空襲を受けた都市は日本全国で120ヶ所以上にのぼります。」

兵庫県の女性からの手紙。空襲に遭っても「家が焼けないのに避難なんか」と言っていた父の言葉。その直後に落ちた1発の小型爆弾で、父、母、姉、兄2人、自分以外の家族すべてが亡くなった。

岡山市の女性の手紙。弟が虫の息の下から「おみず、おみず」と言うと、母がからっからののどから唾を出して飲ましてやった。するとまもなく弟は息を引き取った。

「この時代も今の僕らの時代も、命の重さだとか形だとかはまったく変わらないと思います。でもあまりにも、命のなくされ方、人生の最後というものが、あまりにもちょっとかけ離れすぎて、僕もちょっと、理解に苦しむものがあります。

ところどころ早口になったり、「ん…」と言葉に詰まったりする感じで話している中居くん。人生の最後、納得できない終わり方を余儀なくされる理不尽さを話していた「貝」のインタビューを思い出す。

現実の空襲がどんなに恐ろしいものなのか、市民たちに十分な情報は与えられませんでした。そのために犠牲者が増えたのだとすれば、ほんとうにやりきれない気持ちになります。」

母と娘を亡くし、ひとり生き残った女性が、最愛の娘の遺骨と対面できたのは終戦の1ヶ月後だった。

「愛おしくて、そのお骨を一晩抱いて寝た。初めて泣いた。旦那が戦死したときも、父親が死んだときも、兄が死んだときも(泣かなかった)。母親死んで、娘死んで、初めて泣いた。」

空襲で亡くなった人は、全国で40万人とも60万人とも言われている。

水を欲しがる我が子に唾を与えた母親の話を聞いて、野坂昭如の「凧になったお母さん」を思った。あれも何度読んでも涙なくしては読めない話だ。

昨日の読売新聞の夕刊に、今回のNHKの戦争証言プロジェクトについての記事があった。集めた証言をデータベース化して残していくという取り組みをするということで、この番組のことは内容と放送日のことだけ触れていた。

証言をしてくださる方々には次世代に伝えなければという思いがあり、取材に行く若いディレクターに戦時中の言葉がわかるように話してくださるそうだ。

今日の番組を見ていても、非常持ち出し袋のこととか防空頭巾のこととか、子どもでもわかるように説明してくれているのが印象的だった。



コメント

nophoto
2009年8月13日3:01

こんにちわ。
守るって一体、何を守るんでしょうね?家族を差し置いて・・。
今の感覚だったら絶対、納得など出来る筈もないのに。戻るなんて・・。
行け!と言われれば駆り出され、消火活動と言われれば有無なく従う。
清水豊松家と、近隣の人達の顔が浮かびました。
情報も乏しく 知る事もなく、ひたすらにがむしゃらな人々。悲しすぎます。
決断を迫られてというより、されるがままに、あるいは思惑通りに
命が消されてしまった事実に、無念だけでは伝えられない感情が湧いてきました。

レポをありがとうございました。

かりん
2009年8月13日21:27

何よりも大切な命がこんなにもないがしろにされていた時代。
情報もなく、ただ国を信じるしかなかった人々。
「馬鹿を見るのはいつも下っ端の者ですよ。」
犠牲になるのはいつも弱い立場の人たちで。
なんなんだろうな、戦争って、と改めて虚しさを感じました。

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