増刊号。

写真集イベント。写真撮影の様子とかタカトシの楽屋にパンを差し入れするところとかを、ちゃんと小窓つきで流してくれたのがよかった。

放送終了後の友達との旅行話で、友達の奥さんのいびきにビックリしたことよりも、ザコ寝状態でふすまを開けて寝ていたというところにビックリしてしまった^^;。いったいどんな宿、っていうか羨ましい…なんちゃって^^。

黒バラ。

ギャルとおっさんたちが流れるプールでただ流れてみる図をダラダラ流す25分(笑)。かといってようやく始まったゲームはさらにまたグダグダになっているようだし。

チーム分けのとき、中居くんはデブじゃない分類になってたのでホッとする。そりゃまぁ、あのメンバーの中じゃ当然だけど^^;。

おなかからはつい目を逸らしたくなるけど(笑)、冷たい水に入って「いかり肩」になってるところや滝ポイントを通過するときの背中にはやっぱり目がいってしまう。

前の旅行企画の露天風呂のくだりでも、意外に広くてたくましい背中ばっかり印象に残ってるから^^。
稲倉棚田と唐沢の滝
稲倉棚田と唐沢の滝
稲倉棚田と唐沢の滝
稲倉棚田は「日本の棚田百選」にも選ばれている有名な棚田だ。いちばん上の写真が全景。

もちろん姨捨の棚田もそうだし、「砂の器」の放浪シーンに出てきた宮崎の坂元棚田も百選に入っている。さらにいえば、亀嵩近くの大原新田でもロケがあったはずだと観光協会の方がおっしゃっていたし、今年の春には高知檮原の千枚田を訪ねる機会もあった。

というわけで去年からこっち、どんだけ棚田めぐりをしてるんだっていう^^;。

今回の旅はレンタカーにしたのでナビまかせにするつもりだったのだけど、こういう田園地帯の案内はどうも苦手なようで(笑)。行く前に棚田への行き方を現地の写真つきで懇切丁寧に説明してくれているサイトを見つけて印刷していったので助かった。

2番目の写真は、撃墜された米兵の捜索に兵士たちが向っていく道。映画の中ではこの正面に旧西塩田小学校の裏にそびえる独鈷山を合成している。

それは兵舎の裏山(大北山)に米兵が落下したという設定のためで、その前フリとして兵舎が最初に画面に登場するとき、この山を印象的に登場させているそうだ。(上田フィルムコミッションの方のお話)

全景を見下ろせる休憩所には感想ノートが置いてあった。ここの棚田は保全支援のためにオーナー制度を設けているということで、作業にやってきた人たちや見学に来た人たちが保全運動の感想や棚田への思いを書き綴っていた。

私の場合、全く目的は違うなぁと思いながら^^;、「私は貝になりたい」のロケ地を訪ねてきましたと書いておいた。もしかして、「へ~、そうなんだ」とDVDを見てくれる人がひとりでもいたら嬉しいから。

この後は唐沢の滝に足を延ばした。

前回訪ねたときは映画公開前で、ずぶぬれのロケをしたという情報は聞いていたものの、具体的にはもちろんわからなったので、滝そのものの写真が多くなってしまったのだが、豊松さんたちが落っこちて怒鳴られたのは、この写真にあるように滝の右側だったのだ。

ただ撮影していたカメラの位置、福澤監督が指示を出していたこの上のところまではさすがに行くことはできなかった。かなりすごいとこなんだもん(笑)。

藁人形

2009年8月21日 TV コメント (8)
藁人形
藁人形
藁人形
金スマSP。

松岡修造の熱血テニス塾。この暑いのにアツい男の企画。あんまり子ども物も好きではないので、最初は「おっ、中居くんが帽子なしだ^^」くらいの感じで見始めたのだけど、結構面白くて見入ってしまった。

スタジオでもツッコミが入ってたように、ときどきそれはどうなのと思うところもあるけど、確かに松岡さんの教え方は上手で、いい先生だなぁと思う。

中居くんの脱帽は清原さんと辰吉さん以来かな。スポーツ絡みだからなのか、それともよっぽどあの髪型が気に入っているのか^^;。

来週も引き続きで、松岡さんの波瀾万丈と密着。こんどこそさらに暑苦しく、しかも感動路線ではなく単純に笑えそうでちょっと楽しみだ(笑)。

上田フィルムコミッションの方に稲倉棚田のことを問い合わせたとき、あまり知られていない情報として、旧西塩田小学校に撮影隊が残していったものがあると教えていただいたので、今回もういちど訪ねてみた。

それがこれ。

豊松さんたちが銃剣で突撃訓練をしていた藁人形。木造校舎の水道のところに無造作に置かれているのだが、美術トラックに積みきれずに置いていったものだそうだ。

教えていただいたときはそんなものがいつまであるかしら、と思ったけれど、特に処分する気もないのか(笑)まだしっかりと形をとどめていた。

それと校庭一面に草がびっしりと生えているのにびっくり。ここの学校は一応さくら国際高校として今も使われてはいるけれど、通信制なので校庭を使うことはほとんどないのだろう。

映画での印象はひどい砂ぼこりだったので、去年の秋の写真を確認したら、ちょうど兵士たちが匍匐前進をしてるあたりだけ草がなくなっているように見える。ひょっとして、撮影前に草刈りをしたんだろうか。

校舎周りの写真を撮りたいと許可をもらいに行った職員室入り口の横には、去年同様ちゃんと貝のポスターが掲示してあった。

ポスターといえば、映画公開中には貝の撮影風景など関連のものが展示されていたという上田城前の観光会館。当然のことながら今はもうポスターがあるのみで、展示スペースはこの夏公開中のアニメ映画「サマーウォーズ」一色になっていた。

アニメではあるけれども上田を舞台にしているということで、町のあちこちにもポスターが掲示されていたり、のぼり旗なども立っているのだった。

イベント(写真追加)
イベント(写真追加)
イベント(写真追加)
1泊の小旅行から帰宅。録画しておいたスーパーニュースでイベントの様子をちょっとだけ見ることができた。

旅行中もどんなだったかな~って携帯で掲示板の書き込み等をチェックしたら、ひとりひとりと握手しながらちゃんとそれぞれの言葉に応えたりうなずいてくれたりする中居くんの様子がわかって、なんだかとっても嬉しくなった。

写真はJR篠ノ井線姨捨駅とホームからの風景。

標高547メートルに位置するこの駅はスイッチバック方式になっていること、またホームから見下ろす善光寺平の風景が日本三大車窓になっていることで有名である。ちなみに他のふたつは、根室本線新内駅付近、肥薩線矢岳駅付近だそうだ。

ホームにあるベンチは全て線路に背を向け、善光寺平のほうを正面に置かれている。

スイッチバックといえば、木次線の出雲坂根駅、それに風景を見るためのベンチといえば山陰本線の鎧駅もそうだったなぁと、また「砂の器」のことを思い出すのだった。

姨捨棚田

2009年8月19日 TV
姨捨棚田
姨捨棚田
姨捨棚田
携帯に便利な「中居正広増刊号」をお供に、ただいま信州・上田に滞在中。

いつもなら夏の旅行は8月初めまでには行くのだけれど、今年は研究発表のこともあって7月に計画を立てることができなかったので、こんなに遅くなってしまった。でも今までは天候不順が続いていたのでかえってよかったかもしれない。

このところの長野は天気がよく、気温も30度以上でひょっとすると関東の海沿いのほうが涼しいかもしれないと、今日話した地元の方もおっしゃっていた。でも朝夕はかなり冷えるようになったそうだ。

泊まっているのは去年の秋のときと同じホテル。全室パソコン完備なので、こうしてちゃんと日記が書けるのが嬉しい。

写真は姨捨棚田。

放浪していた豊松さんと房江さんが最後にバスを降りた場所。どうしてもロケ地がわからず、東宝に直接質問のメールを送って、ようやくここだとわかったことは以前の日記に書いた。

この携帯の写真では小さくてよくわからないと思うけど、左の方に映っている大きな岩、姪石(めいし)が目印だ。

映画では後ろの風景はもちろん合成(遠くに海が見える)だったし、棚田は水が張られた状態だったので、かなり印象が違っていて撮影場所を特定するのは難しかった。ただこのあたりの道がボンネットバスが走ってきたところかなと推測。(たぶんあのバスも合成だけど^^;)

姨捨棚田はもともと「田毎の月」と呼ばれる名勝地で、芭蕉はじめ多くの俳人が訪れ句を詠んでいる。この棚田の近くには長楽寺という芭蕉ゆかりのお寺もある。

水が張られた田のひとつひとつに月が映るというその風景はさぞ美しいことだろう。

今日はそのあとで、松代の地下壕を訪ねた。

太平洋戦争末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、大本営、政府各省庁、皇居までもこの地に移すという計画のもとに、昭和19年から終戦の昭和20年8月15日までの9ヶ月間、延べ300万人の住民と強制連行の朝鮮人によって作らせた地下壕で、総延長は6000メートルにも及ぶそうだ。

公開されている500メートル余りの壕の内部は当時のままで、壁に残る工事のあとも生々しい。気温も14度くらいで、電気はあってもやはり怖い感じ。たまたま他にも見学者がいたのでよかったけれど、もしもあの中にたったひとりだったら、さすがにちょっと無理かもと思った^^;。

中居正広増刊号

2009年8月18日 TV
いいとも。

お誕生日の中居くんはとっても黒かった(笑)。

メンクイの先生の解説がちょっと長かったせいか、エンディングの余裕がなくって、誕生日と写真集の告知がすごく短くなっちゃったのが残念だった。終了後はお祝いをしたのかしら。明後日のイベントも含めて、今度の増刊号でたっぷり見せてくれるといいな。

写真集。

予約した本屋に行く前に立ち寄ったセブンイレブンの雑誌コーナーに3冊。ほんの一瞬だけ迷いつつ、いやいやどうせこのあと手に入るんだし、と自制心を働かせる(笑)。

地域では比較的大きい本屋だけど、やっぱり普通には並んでいないようだった。

この前の予約電話では、うまいこと「なかいまさひろ」という言葉を口にせずにすんだ(笑)ものの、さすがに今日は言わないといけないかなと思いながらカウンターに行くと、中の机の上に10冊くらい積んであったので、「その本を予約した〇〇ですけど」で通じたのだった^^。

可愛いのも、カッコいいのも、どうなんだろと思うようなのも、ぜ~~んぶひっくるめてこれが中居くんなんだなぁ。どこが気に入ってこの服を買ったのかなとか、この日の朝の気分はどんなだったんだろうなとか想像するだけで楽しい。

それに、太ったのなんのと言ってるけど、こうして見るとやっぱり基本的には細いというのが印象。特に足が細くって長くって、それを際立たせるスリムなパンツが好きだ。

画伯の絵も、どれもこれも期待を裏切らない出来栄えで^^。

お気に入りは、手足とひげのあるかたつむり、ゾンビみたいな獅子舞…、どこのおっさんかと思うサンタクロースやなぜか上目遣いのオットセイも捨てがたい(笑)。

コンパクトで軽くって携帯に便利な本をありがとう。

通販サイトでも軒並み1位になってる。すご~~~い。こりゃ「週刊ベストセラー」とかになっちゃうのかな^^。

いつも楽しませてくれてありがとう。

しかも今年は逆プレゼントの写真集までいただけて(笑)。

37歳の1年間も、健康で幸せな日々でありますように。
スマスマ。

万里の長城で二人三脚。

私がちゃんとスマスマを見るようになってからのお仕事ロケは木村くんと剛くんのトライアスロンだけだったから、他のロケと比較はできないけれど、やっぱりこれはものすごくきつかっただろうなぁ~と思う。

北京から近い観光地の八達嶺みたいにちゃんと整備されたところでも、特に真夏の厚さの中で歩くのはしんどいのだから、あの崩れた道を10キロも二人三脚で歩くなんて尋常じゃない^^;。

親友なのにかみ合わないふたりのやりとりに笑いながら、最後には「おじいちゃんになってもコンサートとかやりたいね」、そして「生涯SMAPでいたいよね」の言葉にちょっとじ~~んとしてしまった^^。

Tシャツの「8」にすぐ中居くんのほうを見る木村くんと、おっきな紙袋にポツンと入った「中井」のハンコも可笑しかった。

そっときゅっと。

スマスマにしては珍しくカメラアングルがよかったので、ダンスの全体像がよくわかった。

中居くんは今日は赤いチェックのシャツ。慎吾くんのベストの着方は昨日と同様で、あれでいいのかな(笑)。んで、ふたりはやっぱりすごく汗をかいていた^^;。

「そっとキミの手を握りしめる」で右足をちょこんとはねるのが妙に中居くんだけ可愛い。一緒に小首をかしげるからか、開いた手の加減なのか。基本は同じフリなのに不思議^^。
とくばん。

すっごく楽しかった~。

中居くんの誕生日祝いがあるなんて全然思いもしなかったので、最初にみんなが花束を持って出てきたとき、今日は番組の〇周年だったかななんて思ってしまった(笑)。TBSなのにちゃんと写真集の告知してるし^^。

「そっときゅっと」のダンスの話、断ることを知らないで思ったとおりやっちまった吾郎ちゃん。短めの髪で、今日みたいに前髪を下ろしていると、いっつも可愛いなと思う。

そんで、「ぞっとぎゅっと(@木村くん)」の初披露。

本当にこのメロディーにどうやったらこういう振り付けを考えつくんだっていうくらい、忙しくてキビキビとしたダンスが、逆に妙にツボにはまる(笑)。まだこなれていないのか、表情がものすごく一生懸命で厳しいけど。やっぱりSMAPの歌は映像つきで見ると何倍も好きになる。

少しずつ違うデザインの衣装というのも大好きだ。ただ、どうしても帽子を被ってる人を目で追う癖があるので、今日もふっと慎吾くんのほうに目が行って、「あれっ、太い、違う(ゴメンね・笑)」と思って中居くんを探すということが何度かあった^^;。

そっときゅっと陸上は、とにかくずっと楽しかった。

チーム分けするだけであんなに盛り上がるってなんなんだろ(笑)。ここでも吾郎ちゃんがいい仕事したなぁ^^。

中居くんの「ムカデ競走やんの?」の言葉に、木村くんが「おまえがこうやってるときだよ!(怒)」と言ったのが可笑しくて可笑しくて。見返してみたら、慎吾くんは司会のほうを向いてるのに、木村くんはちゃんと中居くんの踊りを見てるんだもんなぁ^^。

叩かれた板東さんの「何で俺やねん」のテンドンも面白かった。慎吾くんがほんとにこち亀で「何でワシやねん」をやったら笑える。

私立うたばん学園のコーナーはいまいち。夏休み企画だったのかな。ゲストのいっくんが歌を歌うわけでもないし。

名曲コンサートでの、SPEEDへのダメ出しとまさかのやり直しは楽しかった。解散前はあんまり好きではなかったのに、再結成してから、というか大人になってからのSPEEDはなぜか好きだ。

黒バラ。

意外にも(笑)今日はもうサマーランドに到着。水着になるとどうしても中居くんのお腹周りに目がいってしまう。でも、さすがにメタボのおじさんたちの中で遠目から見るとそんなに気にはならなくて、むしろ、まぁ幼児体型で可愛い…ということにしておこう^^;。

増刊号。

表紙だけはプロのカメラマンが撮ったにも関わらず、あくまでも手作り風の仕上がりのようで。

120点余りの私服にそれぞれ火曜メンバーのひとこと。6人で書いてもひとり20点だもんね。いちいち突っ込みを考える(笑)のもなかなかたいへんじゃないのかな。すごく面白そうで、ますます楽しみ^^。

髪型

2009年8月15日 TV コメント (2)
サムガ。

この1年半の鬱憤(鬱憤なのか?)をはらすかのように遊びまくっているそうだ。

海、バーベキュー、ゴルフ、ソフトボール。熱海に泊まったり、テニスをしに長野に行ったり。遊びすぎかな。でもまだまだ遊びたい。プールにも行きたい。

風邪を引いたんだけど、1日で治した。自分で乗り越えた。いつも具合が悪くなると誰かいればなぁって思うんだけど、今回は違った。もう自分で乗り越えられるとわかったから、大丈夫かもしれない^^。

その風邪のときにNHKの自分の番組を見たと言ってたから、これは今週火曜の収録だったのかな。戦争のことは、今まで学校で勉強したり、いろいろ見る中で知ってはいたけど、知識としてじゃなく、ようやく感情が動くようになった。

あとはお父さんのおうちを片付けた話。賞味期限切れの焼肉のたれのことから、カーテンやらなにやら、嬉々として話していた。

9月にはお父さん(プラス友達?)と3日くらい旅行に行きたいそうだ。事務所からは11月にしてくれと言われたけど、あったかいうちに行きたい。家賃がもったいないと思うくらい、家にいないとか^^;。

紅さんがいちばん好きだった中居くんの髪型のことを書かれているのを読んで、私の場合は…とちょっと考えた。

うたばんで脱帽の歴史を流したときの脱帽の(笑)中居くんがほんとによかったなあと思って調べると2006年の4月だった。

そして、それと並んで素敵だったと今でも思い出すのは、トリノの直前、安藤選手とのお食事会。日記を検索したら同じ年の2月だから、やっぱり同じ時期なんだな。日記には可愛いだの、綺麗だの、なんとかの一つ覚えみたいな(笑)言葉ばっかり書いてある。(いつものことだが^^;)

さらにこれを書きながら、そうそうスマスマでタモさんにキスされたときの中居くんも…と思い出して調べたら、またまたその年の4月だったということで、結論が出た。

黒髪の中居くんだったら、「砂の器」の4話、それも最後らへんの和賀さんの髪がいちばん好きだ。ピアノを弾いてるときにあさみから電話がかかってきて「何の用だ」って冷たく言うあたりの。

んで、さっき確認のためにとついDVDを見てしまった。はぁ、やっぱり和賀さんは素敵だった^^。

ずいぶん前に、中居くんがツートンかなにか忘れたけれど、残念な髪(笑)にしてしまったとき、ある方が「直江先生か和賀さんの写真を美容院に持っていって、こういうふうにしてくださいって頼めばいいのに」と書かれているのを読んで大ウケしたことがあったっけ^^;。

今日の夕方、ドラマティック・バスという再放送のドラマを見た。

海外の3つの都市の路線バス事情を織り込んだドラマ仕立ての紀行番組で私が見たのは2話のベネチアの回だった。

ベネチアにやってきたいわくありげな女(戸田菜穂さん)が運河にカバンを落として見失ってしまう。それを拾った大学教授が中に入っていたパスポートを手がかりに彼女を探し、何度もすれ違いを繰り返した末に、ようやくとある教会の前で出会うことができた。

彼女に惹かれていた彼は、カバンを返しながら「もしよかったら…」と言おうとした。すると教会の扉が開き、修道女が彼女を迎え入れる。実は彼女はこの修道院に入るためにベネチアにやってきたのだった。

かくして教授の思いは遂げられずに終わる、というストーリーなのだが、パスポートにあった彼女の名前、「堅井 操」がオチになってるところが妙に笑えた。

それになんといっても、路線バスならぬ水上バスで巡るベネチアの街並みがとっても美しかった。

忘れないで、わたしたちの戦争。

こんな大事な番組なのに、まずは中居くんの髪がどうかというのが気になってしまうというのがなんともかんとも^^;。

横を下げていたのでスマスマの歌のときよりは、刈り上げの部分が目立たなかったけど、やっぱり不思議な頭だ。う~ん、とりあえず早く伸びてほしい(笑)。

BSの番組のほうが収録が先だったし、それよりもなによりも中居くん自身が本を読んだりお父さんから話を聞いたりして、いろいろと知識はあると思うのだけれど、今日の番組の進め方は何も知らない若者たちに向けて、という感じだったので、五木寛之さんが驚かれたような最初の発言をしたのかなと思った。

証言の中では、木にくくりつけた捕虜を上官の命令で仕方なく殺したという方の話が、まさしく豊松さんそのものの体験だということや、それを自分の奥さんにも今まで話していなかったこと、また、部下が大勢死んだのに生き残った自分だけが楽しい思いをしてはいけないと自分を律して生きてこられた方の言葉に胸をつかれた。

先日たまたまチャンネルを合わせたやはりNHKの番組で、中国人の男性が、戦時中日本軍に追われ隠れていたとき、泣き出した妹を心を鬼にして絞め殺したという体験を涙ながらに話していた。

今日の番組もハイビジョンの番組も、被害者としての日本を取り上げたものだったけれど、五木さんが言われていたように、日本が中国をはじめ、アジアの国々に対して行った加害行為のこともきちんと知っていなければいけないと思う。

追記。

戦場での体験を妻に話していなかったというところで思い出すのは、戦犯をみんな捕まえて死刑にすればいいとまくしたてる正吉に「よかったよな、おれたちは二等兵で」と言う豊松さんを、房江さんがつらそうな表情で見つめる場面だ。

きっと豊松さんもあの出来事を房江さんに話すことができなかったんだろうなと思う。

そのあと、ついつい「火垂るの墓」を見てしまった。年中行事のように放送するのを毎年見ていたのに、このごろはあまり見ていなかったのだが。すでにオープニングのとこらへんでじわ~~っとなり、節子が病気になってからはもうボロボロだった^^;。

そしてさらにその後、ハイビジョンで「ビルマの竪琴」を最後のほうだけ見た。隊長は石坂浩二さんだったんだな。若くて細くて、いかにも美男子然としていて、穏やかで冷静な指揮官にぴったりだった。
集団自決によって300人以上の住民が亡くなった渡嘉敷島。自らの家族を手にかけ地獄を見た人々の記憶。

タイトル「集団自決 戦後64年の証言 ~沖縄・渡嘉敷島~」

「愛する家族の命を自らの手で奪う。みなさん、想像できますでしょうか。今の私にはまったく想像つかないことです。あまりにも辛い経験です。

集団自決…。この言葉も、この話を聞くまで僕は知りませんでした。しかし、沖縄を始め、満州などの各地で多くの人々が経験した現実であります。

戦争を知らない世代として、私は、このような事実があったことを知っておかなければならないんだと思います。」

戦前の渡嘉敷島は漁業と鰹節の生産で潤った豊かな島だった。島の人たちは家族のように助け合って暮らしていた。

真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まると、住民たちは国民学校に集まり、村を挙げて勝ち戦を祝った。村は戦争一色に染まっていき、若者たちは、立派な日本人、軍人になるにはどうしたらよいかを考えていた。戦場で天皇のために死ぬのは最高の名誉だと思っていた。

昭和19年9月、300人を超える日本軍が上陸。沖縄本島に向かうアメリカ軍を特攻艇で背後から攻撃する作戦だった。住民たちは特攻艇を隠す壕を数ヶ月かけて作る作業にかり出されたり、住居を日本軍に提供したりした。

島の若者たちはやってきた軍人たちに羨望のまなざしを向けていた。そして毎日のように「戦陣訓」を唱えていた。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。捕虜になるよりは死を選べという教えだ。

昭和20年3月、激しい空襲に続いて、アメリカ軍が上陸してきた。直接沖縄本島に上陸すると考えていた日本軍は、地上戦の装備をほとんど持っていなかったため、部隊は山間部に逃れ、住民たちは防空壕に身を潜めた。

「沖縄で日本軍の部隊がいたのは、渡嘉敷島だけではありませんでした。」

石垣島に住んでいた方の手記。14歳で海軍飛行予科練生に志願。いずれ兵隊に取られるなら1日も早く飛行機に乗って敵を倒したいと思った。

座間味島に住んでいた女性の手記。島にやってきた兵隊たちのキリっとしたようすに惹かれたことや食料を惜しげもなく分け与えていた住民たちのこと。

「軍と協力して、島の防衛を固めていった住民たち。渡嘉敷島では日本軍のあとを追って山に入った人々にアメリカ軍が迫ります。」

アメリカ軍上陸の夜、およそ700人の住民は日本軍が陣取る島の北部の山を目指し、敵の砲撃を受けながら歩き続けた。しかし、日本軍は住民たちを助けるどころか、陣地に入れなかった。

山の中で孤立した人々の頭上から迫撃砲が降りそそぎ始めた。すぐそこにアメリカ軍がいると感じた人々は激しい恐怖にかられ、手榴弾での自決を決意する。

しかし、手榴弾の多くは爆発しなかった。父親たちは自らの手で家族の命を絶とうとする。おのやくわで暴れまわる者、刃物で切りつけながら歩く者。

「本当に人間の仕業ではない。本当に恐ろしい。」

およそ700人のうち、300人が命を落とした。生き残った人たちは山の中に潜み、アメリカ軍のビラによって敗戦を知り投降した。

当時18歳で、両親と幼い弟、妹を手にかけた男性にとっての戦後64年間は償いの日々だった。

「誤ったことをしてしまったというお詫びの言葉しかない。僕たちも生きるとは考えていなかった。小さい子たちが死ぬのは嫌だと逃げ回ったことも、今、目の当たりに浮かぶんですよ。」

今年に入って急速に体調を崩し認知症の症状も出始めたというその男性の最後の言葉。「どうしてああいうことをしなければいけなかったのか。その一点だけは心の中から消えないと思います。」

集団自決を体験した人々の戦争は、まだ終わっていない。

「今、私は苛酷な戦争の時代とはかけ離れた生活を送っています。しかし、実際にこうしていろいろな方のお話を伺ってみますと、戦争というのは64年も前ということではなく、つい最近起こった出来事であると思えてきました。

忘れないでください。今も世界中、各地で戦争は行われています。その原因や形はさまざまですが、人の命が失われているんです。奪われているんです。変わりはないと思います。今回の番組で、私は決して戦争はあってはならないものだと改めて感じました。

番組にはこれまでに300通以上の手紙が届きました。最後にその中の1通、20代の方から届いた手紙をご紹介させていただきたいと思います。」

90歳の祖母から初めて聞いた満州からの引き揚げ体験。次男を餓死させてしまった祖母の辛い過去を知った。祖母が生きていてくれたことに心から感謝している。

「私は、戦争を語ってくれた方々の言葉を、とにかく忘れないようにしようと思っております。僕らがこのように、今恵まれて幸せな生活を送れているのも、そういう方々がいたからじゃないかと思っております。

命の重さは、今も昔も変わりありません。ただ僕たちは、そのような戦争があったということを知るべきだと思います。学ぶべきだと思います。頭ではわかっていても、なかなか感情が動きませんでした。戦争体験を忘れない、それは私たちの世代が受け取ったミッションなんじゃないかなと思います。

証言してくださった方、手紙をくださった方、改めて感謝したいと思います。ありがとうございました。」

深々と頭を下げて、スタジオを後にする。

5回分の収録。内容が内容だけに、一気にVTRを見るのもすごくハードだっただろうなと思うけれども、中居くんの言葉、表情、手紙を読む声のひとつひとつから、その思いは十分すぎるほど伝わってきた。本当にお疲れさまでした。

そしてそんな中居くんを見ながら、レポ(らしきもの^^;)を書く作業も、こう言ってはなんだけども、とっても楽しかった。

番組終了後、明日の特番のスポットが。(これは総合でもたぶん流れてると思うけどついでに^^;)

「僕は戦争を知りません。だからこそ戦争を体験した方々の声に、耳を傾けなければならないと思います。日本人だけで310万人の命が失われた昭和の戦争。かつて若者だったひとりひとりの64年目の声です。」

後ろに観覧の若者たちがいるので収録時の中居くん。こっちはグレーのピンストライプ。髪型がどうかと心配したけど(笑)、正面から見る限りは全然平気だ^^。
町を守るために避難を禁じられ、市内にとどまった人々を襲った空襲。

タイトル「禁じられた避難 ~青森市~」

「日本各地の都市が空襲に遭ったことは知っていましたが、青森空襲でこれほどの被害があったことは知りませんでした。

しかも、空襲を恐れて郊外に避難していた市民をわざわざ家に戻す。なぜ、このようなことが起こってしまったのでしょうか。そして、なぜアメリカ軍は青森を空襲したのでしょうか。」

戦時中の青森市は北海道から運ばれた石炭を各地の軍需工場に送り出す基地となっていた。

昭和20年、東京、名古屋、大阪などの大都市圏は頻繁に大空襲に襲われるようになり、青森でも建物疎開や空襲に備えた防空訓練が行われた。しかし、都市から多くの疎開者が移り住んでいたため、青森市民の多くは空襲が差し迫ったものとは感じていなかった。

7月14日、北海道から石炭を運んでいた連絡船が狙われ爆撃され、12隻の連絡船は全てが沈没、座礁。市内各所でも400人以上が亡くなる。アメリカ軍の目標は石炭輸送の妨害だった。

恐ろしい空襲を体験した市民たちの約3割は郊外の田園地帯へ避難した。しかし県や市はその行動に危機感を抱き、県知事が新聞で「逃げたものは防空法(敵の空襲に対して市民の協力が必要なときは市内からの退去を禁止することができると定めた)によって処罰する」と警告。

さらに、「一家全員で避難して家が空っぽになっている場合は配給を停止、帰宅の期限は一週間後」と決められ、それを知った多くの人々、とりわけ女性、子ども、年寄りが郊外から市内に戻ってきた。

「石炭輸送の拠点となったために青森はアメリカ軍に狙われることになりました。」

当時青森市の中学生だった方、また島根の男性からの手紙。子どもたちも勤労動員にかり出されたが戦争に勝つまでは国民が火の玉で頑張るということに誰も不満をいうものはなかった。

「当時はこのようにすべての国民が戦争への協力を求められる時代だったんです。青森の人たちも、空襲による火災から町を守ることを求められ、家に戻っていました。」

空襲前日の7月27日、アメリカ軍が青森市に空襲を予告する大量のビラを撒く。目的は市民を動揺させ、戦争を終結させるための心理作戦だった。市民の中にはビラを見て家族を避難させた者もいたが、憲兵などによってビラは回収されほとんど市民の目にとまることはなかった。

帰宅期限だった翌28日の夜、帰宅していた市民たちの上に、62機のB29爆撃機が無数の焼夷弾を落とした。市民の消火活動はまったく無力だった。

投下されたのはM74という新型焼夷弾。空気に触れただけで自然発火し、水をかけても消えにくく飛散して燃え広がり、乾くと再び発火するという「黄燐」という物質が使われていた。

家の近くの建物の地下室に避難していた女性の話。

建物に焼夷弾が落ちて、1階に上がるが外は火の海で逃げることができず、母と赤ん坊だった自分の娘と3人で部屋の中央に身を寄せ合い、「死んだお父さんとおじいちゃんのそばに行こうね、3人でなかよく」と言って布団をかぶり、それきり眠ってしまった。

気づいたときは救護所にいたが、母と娘は亡くなった。

「自分のほうが先に死ねばよかった。母が私を助けてくれたけども、私は母でありながら我が子を守れなかったなって、そういう気持ちでいっぱいで」

この空襲で市街地の9割が消失。犠牲者は1018人にのぼった。

「空襲を受けた都市は日本全国で120ヶ所以上にのぼります。」

兵庫県の女性からの手紙。空襲に遭っても「家が焼けないのに避難なんか」と言っていた父の言葉。その直後に落ちた1発の小型爆弾で、父、母、姉、兄2人、自分以外の家族すべてが亡くなった。

岡山市の女性の手紙。弟が虫の息の下から「おみず、おみず」と言うと、母がからっからののどから唾を出して飲ましてやった。するとまもなく弟は息を引き取った。

「この時代も今の僕らの時代も、命の重さだとか形だとかはまったく変わらないと思います。でもあまりにも、命のなくされ方、人生の最後というものが、あまりにもちょっとかけ離れすぎて、僕もちょっと、理解に苦しむものがあります。

ところどころ早口になったり、「ん…」と言葉に詰まったりする感じで話している中居くん。人生の最後、納得できない終わり方を余儀なくされる理不尽さを話していた「貝」のインタビューを思い出す。

現実の空襲がどんなに恐ろしいものなのか、市民たちに十分な情報は与えられませんでした。そのために犠牲者が増えたのだとすれば、ほんとうにやりきれない気持ちになります。」

母と娘を亡くし、ひとり生き残った女性が、最愛の娘の遺骨と対面できたのは終戦の1ヶ月後だった。

「愛おしくて、そのお骨を一晩抱いて寝た。初めて泣いた。旦那が戦死したときも、父親が死んだときも、兄が死んだときも(泣かなかった)。母親死んで、娘死んで、初めて泣いた。」

空襲で亡くなった人は、全国で40万人とも60万人とも言われている。

水を欲しがる我が子に唾を与えた母親の話を聞いて、野坂昭如の「凧になったお母さん」を思った。あれも何度読んでも涙なくしては読めない話だ。

昨日の読売新聞の夕刊に、今回のNHKの戦争証言プロジェクトについての記事があった。集めた証言をデータベース化して残していくという取り組みをするということで、この番組のことは内容と放送日のことだけ触れていた。

証言をしてくださる方々には次世代に伝えなければという思いがあり、取材に行く若いディレクターに戦時中の言葉がわかるように話してくださるそうだ。

今日の番組を見ていても、非常持ち出し袋のこととか防空頭巾のこととか、子どもでもわかるように説明してくれているのが印象的だった。



日本から遠く離れたテニアン島に移住した人々が体験した戦争の実態。

タイトル「楽園の島は地獄になった ~テニアン島~」

「昭和の初期、貧しい生活から抜け出すために、大勢の日本人が太平洋の島々に移り住んでいたんですね。

サイパンには私も何回か行ったことがあるんですが、まぁ、20代の若いころということもありまして、手榴弾がパ~って散らばっていたんですね。え~、その様子を見ました。単純に、すごいなって思いました。

ただ、歳を取るにしたがって、その意味というものを理解するようになりました。そこから僕たちは何かを学ばなければならないんじゃないかなって思うようになりました。

さとうきび栽培に夢を託して、テニアン島に移住した人々。しかし戦争が彼らの夢も生活も粉々に壊してしまうのです。」

当時、テニアン島の面積の8割を占めたさとうきび畑は島に移住した人々の豊かな生活を支えていた。映画館や芝居小屋、カフェなどが立ち並んでいたにぎやかな街並み。働いて、そして遊んで。貧困にあえいでいた福島から渡ったおよそ2000人の人々にとって、そこはまさしく希望の島だった。

しかし太平洋戦争の勃発とともに、南方侵攻の軍事拠点としてテニアン島には航空隊の兵士たちが駐留、やがて戦局は悪化し日本軍は島の兵力を増強する。

島の住民たちも飛行場づくりや飛行機を守るための壕をつくる作業に借り出されたり、住居を兵舎として提供したりしていた。

昭和19年、激しい空襲が始まりさとうきび畑は焼かれ、隣のサイパン島にはアメリカ軍が上陸、5万人以上が犠牲になる。

両親がサイパン島でさとうきび農家として働いていた方、そして、ミンダナオ島に移住していた方からの手紙を朗読。戦争によって平和で豊かだった島の生活が天と地ほどに変わってしまった。

「穏やかな島の暮らしを一変させた戦争。アメリカ軍が上陸したテニアン島に悲劇の日が迫っていました。」

昭和19年7月24日、4万人のアメリカ軍がテニアン島に上陸。それに対して日本軍はわずか8000人。軍は島の住民を兵力に動員する。

住民たちによる義勇隊3500人は日本軍とともに島の北部へ、女性と子どもたちは島の南部カロリナス台地へと逃げ、ジャングルの中の無数の洞窟に身を潜める。

やがて撤退を余儀なくされた日本軍がカロリナス台地に逃げ込んできたため、住民たちもアメリカ軍の攻撃にさらされる。

爆撃によって鼓膜が破れ泣き止まない赤ん坊の口を塞いで死なせた母親。捕虜になるのを恐れ、集団自決を図った複数の家族。洞窟の中は手榴弾の青白い煙で見えなくなった。「海ゆかば」を歌い、「万歳万歳」と叫ぶ声も聞こえた。

母親に日本兵が残した銃で射殺してほしいと懇願された当時18歳男性の証言。

「よし、わかった。それでおふくろを座らせて『ありがとうね、長い間ありがとうね』って手を合わせて、で『いくよ』って心臓を狙って撃ったら、じーっと血が出てきた。そうしたら親父がここ(額)だと言うので、2発目撃ったらガクンとなった。

そうしたらそばで見ていた9歳の妹が、今度は私の番だと、今おふくろが死んだところに座って手を合わせている。

おれが鉄砲を構えたら、『あんちゃん、ちょっと待って』と言う。『水飲みたい』って言うんだよ。『水飲みたい』って、その水があるわけないじゃない。

かわいそうだと思って銃を置いて、海岸端にたまっている水を見つけて。水筒のふたに2杯くらい持ってきて、『ほら飲みな』って飲ませて、そしたらうまそうにゴクンゴクンと飲んでな。『うまいよ、あんちゃん』って言ってたよ。

『もういいわ。撃ってよ。お母ちゃんのところに行くから』」

彼はその後、手榴弾が不発のために自決に失敗。直後アメリカ軍に捕らえられた。テニアン島は軍人、民間人合わせて1万人以上の犠牲を出してアメリカ軍の手に落ちた。生き残った住民たちは終戦まで島の収容所で過ごす。

スタジオの中居くん。アップになったその目は潤んでいるようで、かみしめた唇からはしばし言葉が出なかった。

「太平洋のほかの島々でも、多くの住民たちが犠牲になりました。」

ポナペ島に暮らしていた方からの空襲や苦しい生活を詠んだ歌、ミンダナオ島に住んでいた方からの手紙には、引き揚げ船に乗ってようやく日本が見えたときに亡くなってしまった母親の最期のようす。

「少しでも豊かな生活を求めて太平洋の島々に渡った人々。その島が戦場になるなんて思いも寄らなかったんじゃないかなって思います。

それなのになぜ軍人でもない彼らが戦争に巻き込まれ、集団自決にまで追い込まれなければならなかったのでしょうか。どう考えても納得ができません。理不尽なものだけが残ります。手紙も、すべてそうですが、なぜ、どうしてという言葉が繰り返し僕の頭の中に残ります。

それが、戦争ということなのでしょうか。」

家族を手にかけたさきほどの男性の言葉。戦後、心に深い傷を負って生きてきた。

「戦争の残酷さは身にしみてようわかってるけど、こんなことはおれひとりでいい。誰もそんな苦労する必要はないよ。戦争は残酷そのものなんだ。」

男性の証言にはやはり泣けた。

それと、別の男性の話で、「日本軍が住民を集めて『万一敵が上陸してきたら殺される前に、捕まる前に死んでください。それが日本人だから』と言われ、何百人という人で『海ゆかば』を歌った。そのとき金縛りにあったような気持ちになった。死ぬのが日本人なんだと子どもでもそう思った。」という言葉も印象に残った。

歌の持つ力がこんなふうに人間の心を支配してしまうなんて悲しいことだと思う。

いいとも。

写真集発売のイベントかぁ。中居くん関連のイベントなんて珍しいな。お値段といい、イベント開催といい、ファンサービス満点…まぁ、幸運な人は1000人だけだけど^^;。
スマスマ。

大原麗子さん追悼企画。

この前も書いたとおり、第1回のほうはVTRで見たことがあるので結構ちゃんと覚えてる。森くんが映らないように編集してるから、まるで剛くんがひとりで作ってるみたいだった^^;。

長渕剛さんのビストロ&書道対決。

オーナーも黒いけど、長渕さんの前では全然目立たない(笑)。ああいう雰囲気を見てると、清原さんとすっごく似ていて、仲が良いというのもよくわかるな。書画のほうは、正直言って上手いんだかなんだかよくわからない^^;。

歌。

う~ん、う~ん、歌よりも何よりも、中居くんの髪にしか目がいかない。もしも26時間テレビでの「可愛いの出ちゃった事件」がなくて初見だったら、かなりの衝撃を受けたかもしれない(笑)。

夕べのたまッチ!

ごく最近の中居くんなのに、ハットや衣装のせいかすらっと見える。モデルのNanamiさんの隣でも全然気にならないくらい。それに右足を前に出した座り方をするとき、すごく足が長く見えて(実際長いけど)カッコいい^^。

ここでも写真集の話。「牛丼の大盛りくらいですよ」には笑えた。
大分県、豊後水道に浮かぶ保戸島。その島の国民学校の子どもたちを終戦直前襲った悲劇。

タイトル「爆撃された教室~大分・保戸島~」

「豊かな自然に囲まれ、のんびりとした小さな島に、ある日突然悲劇が訪れる。しかも犠牲になったのは4歳から14歳の子どもたちです。

この写真は、昭和17年に保戸島の国民学校2年生の子どもたちを写したものです。(7人の子どもたちが笑顔で写っている) それから3年後、この子どもたち全てが爆撃の犠牲になりました。今の僕では想像がつかないです。

どうして子どもたちは、犠牲にならなければならなかったのでしょうか。戦争が起きたあの時代、島ではいったい何が起きていたのでしょうか。」

周囲およそ4キロ、マグロ漁の基地として栄えた保戸島の高台に、昭和17年、海軍が築いた巨大な建物。それは豊後水道に出没する敵の潜水艦を探知するための基地だった。

また島のマグロ船はほとんどが徴用として戦地に行かされ、戻ってきた船は一隻もなかった。学校のすぐ近くの岩場には監視哨が置かれ、島の女性たちが敵機を監視する役についていた。

「島の漁業は、戦争によって崩壊していったんですね。日本全国の漁村や港町で、船や乗組員たちが徴用されました。」

手紙の朗読。20歳のときに船大工としてインド洋の島々の上陸作戦に徴用された男性の手紙から、風土病や飢餓に苦しみ息絶えていった人々のこと。また、宮崎の漁業組合で働いていた女性の手紙には、弟が乗っていた船が爆撃されたときのこと。

「漁船が次々に徴用され、男たちの姿が消えていった大分県保戸島。小さな島を覆う戦争の影は、急速に濃いものになっていきます。」

昭和20年7月25日。

空襲警報が解除になったあと、3機のアメリカ軍機によって学校は3発の爆撃、さらに機銃掃射を受けた。

友だちの吹き飛んだ頭部、足、飛び出た内蔵。機銃掃射によって穴だらけになり、それでもまだその子は息をしていたという証言。校庭に山のように積まれた遺体の中から、親指の爪の特徴から我が子の右足を見つけた母親。

その爆撃で125人の子どもたちと2人の先生が亡くなった。

なぜ学校が爆撃を受けたのか。海軍基地の遠見の丘を狙ったのなら、なぜ逃げ惑う子どもたちに機銃掃射まで浴びせたのか。その理由は今もわからない。

空襲を体験した2人の方からの手紙を読む。静岡県磐田市でも昭和20年に国民学校の子どもたち28人が犠牲になったそうだ。

「伊藤さんは当時の体験を長年誰にも話すことはできませんでした。平成6年、母校からの強い依頼で、初めて子どもたちに向けて話したということです。

今回証言をいただいている方や、手紙を寄せてくださっている方の中には、この伊藤さんと同じように戦後長い間体験を話すことができず、今回初めて次の世代のためにと証言をしてくださった方も多くいらっしゃいます。心の中にずっと秘めていた辛い記憶を話してくださったことに、心から感謝します。ありがとうございました。」

保戸島の爆撃を受けて助かった女性の話。臀部に受けた爆弾の破片による後遺症に今も苦しんでいる。膀胱が破れたため、腎臓に通された尿を出す管の交換を、命あるかぎり続けなければならない。

「自分が今まで64年、ようがんばってきた。もう生きてるのもいやになるときもある。痛みに耐えられなくて。でも、127人の中に入っていればなんていうことないのに、生き残ったということは、それだけの業を持ってる。そしてまた、それだけの寿命を持ってる。死なれん」

あの日から64年。まだ小さな島の戦争は終わっていない。



39歳(3個目)

2009年8月9日 TV
39歳(3個目)
39歳(3個目)
39歳(3個目)
黒バラ。

同じ人だよねぇ、さっきの素敵なナビゲーターと赤いほっぺの幼稚園児(笑)。黄色いスモックが可愛い。

麹町集合とおこづかい争奪の黒ひげゲームのくだりだけで引っ張る、引っ張る。これじゃやっぱり2ヶ月はもちそうだ(笑)。

バナナマンって黒バラに出たことあったかしら。ちょっと人数が多すぎるんじゃないかと思ったけど、今日の雰囲気は面白かった。

ただ、誰かを集中攻撃するいつものパターンはあんまり好きじゃないので、これから先そういうところがないといいなぁと思う。

6日にNHK総合で見たドキュメンタリードラマを、夕方ハイビジョンで放送していた。もともとハイビジョン特集としての制作らしく、先日のものは短縮バージョンだったようだ。

少女たちのエピソードの省略された部分がまた興味深く、都合で途中までしか見られなかったけれども、それまでまた見入ってしまった。

6日の日記に、「夏服の少女たち」を思い起こさせたと書いたのだけれど、それもそのはず、同じ「広島県立第一高等女学校」の1年生を描いたもので、「夏服~」のほうは、聞き覚えのあった少女の名前「森脇瑤子さん」を中心にしていたのだった。

今日は長崎原爆の日。

そして、直江先生の誕生日でもある。もう39歳になるんだね。若かった先生も立派なアラフォーだ^^。

たくさんの手紙を背景に、黒スーツ、ネクタイ姿の中居くん。静かに落ち着いた口調で語り始める。

「太平洋戦争が終わって64年。これは戦争の時代を生きた方々から番組に寄せられた手紙です。涙を抑えられない辛い記憶、目を背けたくなるような悲惨な出来事、ひとりひとりの重い戦争体験が記されています。

私は幸いにも戦争を知りません。しかし、去年私は映画で、戦争に翻弄され、悲劇的な運命をたどった理髪店の主人の役を演じさせていただきました。それがきっかけで私は戦争がごく普通の市民の生活まで破壊しつくすものだということを実感いたしました。

日中戦争から太平洋戦争の終戦に至る犠牲者は、日本人だけで310万人。そのおよそ4分の1が民間人だと言われています。私はこの番組シリーズで、そうした普通の人々、市民の戦争体験に耳を傾けてみたいと思います。」

タイトル「強いられた転業 東京開拓団 ~東京・武蔵小山~」

「農村から開拓民として満州へ渡った人たちがいたことは私も知っていましたが、商店街の人たちが満州に移民したというのは初めて知りました。

農業経験もない商店街の人たちはなぜ満州に渡らなければならなかったのでしょうか。今の僕でしたら、ん~、どういうふうな選択をしたのか、想像がつきません。国が戦争へと向かっていくなかで、武蔵小山の商店街ではいったい何が起こっていたのでしょうか。」(ここの「ん~」のところはちょっと視線を上に向けて台詞っぽくない感じ)

当時の武蔵小山商店街のようすや配給事情、軍事力強化のため、そして物資不足のため、廃業を強いられていく商店主たちについてのVTR。

「このころ、武蔵小山商店街だけでなく、日本各地で商店が廃業に追い込まれていたようです。」と商店主である父が苦労していたという手紙や、満蒙開拓団に参加したという手紙を紹介する。

さらに満州での武蔵小山商店街の人々の様子。「新天地」の厳しい現実。ある者は病に倒れ、若者は国境警備へと招集される。そして終戦間近、ソ連軍の侵攻によって集団自決に追い込まれる。親が子を手にかけ、互いに小銃を打ち合い、死んでいった人々。

「満州での厳しい体験を綴った手紙も、たくさんいただいております。満州に渡った日本人はおよそ27万人。そのうち10万人以上の人が、終戦前後の混乱のなかで還らぬ人となったといいます。

当時16歳だった笠松恵美子さんからのお手紙です。笠松さん一家はソビエト軍からの攻撃を逃れるなかで家族9人のうち7人が命を落としています。

『あのときのできごとは今でも忘れることはできません。鮮明に覚えています。そのために、どんなことにも心から喜ぶということはもうできません。人と話をして、笑顔を作ることはできます。でも、本当に喜んでいるわけではないのです。今振り返ってみますと、自分の人生はなんだったんだろうと考えてしまいます。』

初めて満州移民の方の体験をうかがいましたが、戦争の記憶とはこんなにも重く鮮明に、おのおのの人のなかに刻み込まれ、そしてそれから60年経った今もなお、癒されていないということを実感しました。」

その後、中国残留孤児として30年前日本に帰国できた女性の言葉。「何も悪いことなんかしてないのに。」今も中国大陸に残された日本人は500人だそうだ。

「自分の人生はなんだったんだろう」との言葉に「つまらない一生だったな」という豊松さんのせりふを思った。

それと、こんな重い内容の番組を見ながらの感想としては申し訳ないんだけども^^;、番組最後に「お便りをお寄せください」と告知する立ち姿がものすごくカッコよかった。


予約

2009年8月9日 TV コメント (2)
増刊号。

中居画伯の即興季節のイラストも、テンション高いカメラマンさんによる表紙撮影会も楽しかった。しかし、あのこいのぼりはすごいわ(笑)。

きっとSMAPとしての撮影なら、あんなテンションでもクールにカッコよくキメるのもわけないのだろうけれども、どうしても笑いをかみ殺したような顔になってしまうのが可愛い。

最後に火曜日メンバーで撮るのも、いかにも和気藹々としてていいなぁ^^。

初めは全く考えてもいなかった写真集の予約。日記やいろんなところでの書き込みを見るにつけ、こりゃやっぱり予約するしかないかと覚悟を決め(笑)、さっきいつも行く書店に電話した。

「新刊本の予約をしたいんですが」
「はい、タイトルはなんでしょう?」

(うっ、すぐにそれは言えない^^;)

「18日に扶桑社から出る…」
「中居正広の写真集ですか?」
「あ~そうです。予約できますか?」
「はい、お受けできます」

あ~、よかった。二重の意味で(笑)。普通に18日には入荷するだろうとのことだった。

やっとフルコーラス
やっとフルコーラス
東京からの帰途、川崎で途中下車。蒲田西警察署こと、川崎市役所の目と鼻の先にある川崎ハローブリッジ。

邦之がイトカツに商店街の再建への協力を求め、すげなく断られた場所。

ちゃんともういちど見直したいと思いながら、まだ中途半端にしか見られていないのだけど、結局のところ、いつからイトカツは邦之に恋していたんだろう(笑)。

何話だったか、とんくにでイトカツがお父さんに怒鳴られたあと、店の前でふたりが対峙したときの邦之がやたらカッコよかったことがあったけど、あのとき心の片隅に何かが芽生えたのかしらとちょっと思った。

しかし、こうやっていざロケ地めぐりをしようと思うと、私の中のテンションの違いみたいなものをつくづく感じる。

「白い影」や「砂の器」だったら、何話のどこらへんのどの場面で、こんな台詞でBGMはこれで、ってところまで思い浮かぶのに、何話だったかすら定かでなかったりして^^;。まぁ、何百回もリピートしたものと比べるのもなんだけれども。

サムガ。

写真集の値段はまだ言えない。1200円から1500円だったら安い? 極力安くしますよって、安いどころの騒ぎじゃない(笑)。

今日は「そっときゅっと」も「スーパースター☆」もフルで流れた。

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